
~織る思想、解く風景~
儀礼の織物から空間芸術へ。幾何のようで、詩のようでもある。
時間と技術を折り重ねて、思想を織り込む。
綴織、それは見る者の記憶にフラクタルのように侵入する美——「凹凸と陰影の構造美」だ。
ドット絵の起源、祈りを織る構造体
布に描かれた最古の幾何学——綴織(つづれおり)をそう表現するなら、きっとその起源にまで遡ることになるだろう。
縦糸が見えない構造、横糸で描く幾何学模様。古代エジプトからペルシャ、フランスのゴブラン織や中東のキリム、時を超えて連なり、日本では「御室つづれ」として西陣に根付いたこの技法は、その技術の純度と複雑さによって、衣服としてよりもむしろ、美術品としての立場を与えられてきた。
たとえば、奈良・當麻寺に伝わる『當麻曼荼羅図』。その成立は約1200年前になる。
これは「布に描かれた祈り」であり、視覚を通じた宗教的体験を可能にする “装置”だった。
綴織は その後も絵巻のように歴史を織り合わせながら、祇園祭の鉾や舞台緞帳、祝儀の袱紗に姿を変える。
西陣織の最古の品種とされ、現代においても、時間と空間に拡張しながら、いまもなお「美術」としての地位を失っていない。
杼が描く、光と影のドローイング
綴織の制作工程に「スケッチ」はない。
あるのは、織下絵と、それを読み解きながら織りの手順を即興的に構築する職人の読解力だ。
絵を読み、配色を設計し、染色を施し、杼(ひ)を手にして織り込んでいく。 杼とは、英語でいう“シャトル”。
往復するその動きは、スペースシャトルやシャトルバスの語源にもなった。
織下絵を脳内で分解し、再構成し、糸という言語に翻訳する行為 —— それは設計であり、即興でもある。
1日で仕上げられるのは名刺入れにして3~4枚。数メートル級の装飾幕となると、完成までに一年を要する。
全体像が見えないまま織り続けるには、完成形のヴィジョンを保ち続ける集中力が求められる。
また、無地の織物を作る際の反復は一種の「瞑想」だ。肩の力を抜き、リラックスしながらも、集中を絶やすことなく織り続ける。
その静かなテンポが、仕上がりの密度を決める。綴織の美は、職人たちの「リズム」「感覚」を土台に、創造されている。
なぜ人は、非合理な美を織り続けるのか
合理性が支配する社会で、なぜこの非効率な技術が残ってきたのか。
その問いに、清原織物の四代目・清原聖司は明確に応える。「人は、美を捨てて生きることができない」。
美しい作品には説明不能な力がある。効率でもコストでも測れない「欲望」が、布というプリミティブなメディアに向かわせる。ギフトとして、空間のしつらえとして、人が人に贈る「意味」を託す装置として。
綴織はすでに、視覚言語としての立場を得た存在なのかもしれない。
清原は、伝統を継承しながらも、変化をためらわない。
「歴史とは保守ではなく、連続した革新」と言わんばかりに。
KESHIKI──風景を織る
清原織物が新たに取り組むプロジェクト、それが「KESHIKI」だ。
ローカルの風景を切り取り、現代建築やインテリアにフィットするこのアートパネルは、近くで見る前提のテキスタイルであるため、これまでにない繊細さと緻密さが求められる。
そのためには新たな織機が必要だった。偶然にも、先代が残した大型織機の部材が倉庫に眠っていた。
設計図もない織機を試行錯誤しながら復元し、「風景を抽象化して織る」作品が実現した。 第一作は、地元・滋賀県のシンボルである琵琶湖の水面。
微細なグラデーションが織り込まれ、視線の移動とともに変化する光と影の層。
空間の空気を変える布。そこにあるのは装飾品ではなく、風景そのものの再定義だった。
清原は語る。
「日本の縁側的美意識を大切にしたい。平安時代のころは、自然と建物が共存するような、内と外がシームレスな設計がなされていた。それは忙しい現代社会でこそ大切なのではないか。綴織の持つ布としての温もりと陰影の美しさが日常にあれば、心豊かに生きられるのではないか」。
綴織の未来はどこに織られるのか
清原は続ける。「綴織を百年後も残すこと」。
その営みこそが、綴織という文化の根である。
「KESHIKI」はその課題解決を模索する最中で生まれた。
技術の継承という壁は年々高くなっている。伝えられるのは、目で見て、手で覚える「身体の技術」だけだ。綴織の世界では、20代から30代の若手がベテランとともに機に向かっている。
失われれば二度と再現できない可能性すらあるこの技術を、未来に引き渡すために。
「伝統とは、受け継ぐものではなく、設計し直すもの。これまでの延長線上を歩いていてはいけない」百年後、どんな織がどんな空間を満たしているかは誰にもわからない。
ただ、「KESHIKI」によって、新しい扉は開かれたのではないか。綴織の奥に宿る“構造美”は、これからも静かに、確かに受け継がれてゆくはずである。